栂(つが)とお転婆少女- 彦坂さん、木に登る
ずっと昔から丘の上に立ち、町を見守ってきた、そんな風格のある巨大な栂(つが)の木。樹齢約二百五十年。 何度も雷に打たれ、幹を折りながらも、成長を続けてきた。
この木に、下半身麻痺のため車椅子で生活している彦坂利子さん(59)が登り、その太い枝に腰掛けた。
やっとの思いでたどり着いた。小鳥たちが歌で歓迎してくれている。彦坂さんは、遠くに広がる岐阜県瑞浪市の街並みを見渡した。 思わず感嘆のため息がもれ、心の中で叫んだ。「すごい。こんなところまで来ることができたんだ。夢みたい!」。
車椅子の彼女をここまでサポートしたのは、愛知県瀬戸市在住のコラムニスト・ジョン・ギャスライトさん(38)と、 彼がこの春立ち上げた木登り学校(ツリークライミングジャパン)のスタッフたちだ。
もともと軽い小児麻痺があり、歩行と言語に障がいがあった彦坂さんが交通事故に遭ったのは七年前。首の骨が折れ、 病院のベッドに七ヶ月固定された。動かせる体の部分は眼球だけ。寝返りも打てなかった。
二重の障がいに見舞われ、もう働くことも、歩くこともできないと実感した彼女は、何度も「死にたい」ともらした。 そんな彼女を変えたのは、同じ病室にいたおばあさんだった。ただ「死にたい」と言う彦坂さんに、そのおばあさんは、 怒ったような目でたしなめた。「死にたいって言っても、そんな体じゃ溺れようと思っても海まで行けないし、 車にひかれようと思っても、道路まで降りて行くこともできないじゃないの」。
確かにその通りだ、と思った瞬間、彦坂さんは「このままじゃ、死ぬに死ねない。どうせなら、死んだつもりになって がんばってみよう」と開き直った。
幸い、手術はうまく行き、上半身は何とか動かせるようになった。
彼女のリハビリが始まった。自分でできることは、できるだけ自分でやるようにした。とにかく自力で動かすことのできる体の部分を、 なんとか少しでも使い続けることが、彼女の毎日の戦いとなった。
中国・南京で生まれた彦坂さんは、終戦とともに父親と船で帰国した。母のことは記憶にない。日本に帰ってすぐ、 静岡県湖西市の他人の家にあずけられ、子供のころから不自由な体で厳しい労働を強いられてきた。 お使いで買い忘れたものが一つでもあると、夕飯抜きにされ、あまりのひもじさに他人の畑の野菜を盗んで食べたこともあった。
最初に結婚した夫は酒乱で、子供にまで暴力を振るったため、離婚するために三年間も逃亡生活を送った時期もあった。
ただただ、生きるのに必死だった。
逃亡中に今の夫に出会った。自分と同じ、あまり恵まれない境遇の人だったが、職人気質のまじめな人だった。
彦坂さんは、主婦としての仕事をすべて自力でこなしている。どんなに疲れていても、夫のために夕食を作らなかった日はない。 できあがった総菜は買わない。料理は、野菜を洗って切ることから始める。毎日、毎日。
ある日、工場で働いていた夫が作業中に右足大腿骨を複雑骨折する大事故に遭った。
彦坂さんは近所の神社に毎日通い、「私が代わりになりますから、どうか主人を救って下さい」と祈り続けた。
回復不可能と言われていた夫のけがは奇跡的に治癒し、再び工場に行けるようになった。
彦坂さんが交通事故に遭ったのは、夫が職場復帰してから十日後のことだった。
「ジョンさんは私に生きる楽しみを与えてくれました。木登りを通じて、いろんな人に出会い、 私の知らない世界を教えていただいています。自分がどれだけ成長できるか、楽しみです」と、 彦坂さんは今も自分の体と戦いながら、日々「生きること」にリアリティを感じている。
ジョン・ギャスライトさんと彦坂さんの出会いは、栂の木に登った日から、五年半前のこと。 彦坂さんが何気なく手に取ったチラシに、ジョンさんのサイン会の案内があった。 ジョンさんの著書はまだ読んだことがなかったが、友人が以前話題にしていたことを思い出し、 会ってみたいと思った。
その日、会場となった書店でサイン会が始まるまで、まだ時間があったので、 彦坂さんは車椅子に乗って書店内にある文具売場でレターセットを選んでいた。
誰かの大きな手が肩をたたいた。振り向くとジョンさんが立っていた。 ジョンさんはこのときのことを「彼女からすごいパワーを感じたので」と話している。
彦坂さんは「あとでサイン会に行きます」と話し、ジョンさんは「待ってますからね」と笑った。
本を買い、サインをもらって喜んで帰ろうとする彦坂さんに、ジョンさんは彦坂さんの連絡先を聞き、手を振った。 「ありがとうね。また会おうね。バイバーイ」。書店中に響き渡る大きな声だった。
それから彦坂さんとジョンさんの家族ぐるみのつきあいが始まった。二回目のバーベキューパーティに招かれた時、木登りの話になった。
彦坂さんは子供のころ、男の子に負けないぐらいのお転婆で、よく木に登った。「車椅子生活になった今じゃ、 もう無理ねぇ」と彦坂さんが寂しく笑った時、ジョンさんは「登れるよ」と答えた。
「ツリークライミングジャパン」の歴史は、その時から始まったと言っていい。 どうすれば車椅子の人を木に登らせることができるのか、何か方法はないのか、ジョンさんは調査を始めた。
アメリカでは、木登りはアウトドアスポーツの一つとして認知されていた。 アトランタに本部を置く「ツリークライマーズインターナショナル(TCI)」という木登り愛好家の組織が、 カナダ、ドイツ、デンマーク、フィンランド、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポールなどに支部を広げていた。
「木に登りたいと思っている障がい者は彦坂さんの他にもたくさんいるはず」と、 ジョンさんは日本に木登りの学校を立ち上げようと考え始めた。
ジョンさんは彦坂さんに「学校を創ったら一番最初に登らせてあげる」という約束をした。
ジョンさんはアメリカに渡り、アトランタの本部で講習を受けた後、学校を開く資格を得るために必要な実績を積むため、 日本はもちろん、アメリカ、カナダ、オーストラリアの支部を訪れ、現地の仲間と共に様々な木に登った。 頭にはいつも、彦坂さんのことがあった。「彼女との約束が僕の原動力だった」。
一方、「木に登る」という夢のような目標ができた彦坂さんのリハビリ活動は、さらに磨きがかかった。
栂の木に至るまで、結局五回、ツリークライミングに挑戦した。
ツリークライミングは、単に木によじ登るのではなく、ロープワークと専用の道具を使ったアウトドアスポーツで、 常にロープで安全を確保しながら登るため、ルールを守ってインストラクターの指示に従えば、子供からお年寄りまで、 障がいのあるないに関わらず安全に楽しめる。
初めて木に登った時、彦坂さんは、いかに自分の力がないか実感した。ジョンさんやスタッフたちに力を借りなければ、 どうすることもできなかった。
「少しでもみんなに迷惑をかけないように」と、リハビリに精を出した。動かなかった部分もだんだん動くようになり、 少しずつ力も強くなってきた。
ツリークライミングで初めて木に登った時、子供のころに感じた気持ちと同じ気持ちになれた。 「いいなぁ木の上は。風は気持ちいいし、誰にもじゃまされないし…」と思った途端、恐怖心が消え、 「体が軽くなって鳥になって飛んで行ってしまいそうだった」。
栂の木に登ることは、彦坂さんにとっても、ジョンさんを中心とする木登りの仲間にとっても、一つの挑戦だった。
数多くのツリークライミングジャパンのメンバーがボランティアを申し出た。
ジョンさんが日本に学校を開設した目的は、単に木登りの技術を教えるためではない。 「ツリークライミング」という遊びの奥深さを伝える中で、失われてしまった森と人とのふれあいを取り戻し、 自然を愛する心を養いたいという願いがあった。自然を愛する心は、日本人の原点でもあり、人の視点を変える力を持っている。 ルールを守って森の中で遊ぶことは、様々な人々を「それぞれの個性を持ちながら一生懸命生きている平等な存在」と感じることのできる、 そんなやさしい気持ちに通じていく。
森の持つ癒しの力を、様々な人々が共に生きる社会の力へとつなげていくため、彦坂さんの挑戦は、 後に続く多くの人たちへの希望でもあった。
山の登り口まで車で行き、この日のために用意した特製の背負子に彦坂さんを乗せた。最初にジョンさんが背負った。
山道を歩きながら、森の空気の心地よさに包まれた。「山に登るなんて、何年ぶりだろう」彦坂さんはジョンさんの背中の上で、 空を見ながら今までの辛い人生を振り返っていた。そして背負ってもらうことを「申し訳ないなぁ」と感じながら、 「私は何をお返ししていけるのかしら」と、そればかり考えていた。
担ぎ役をボランティアの仲間と途中で交代し、クライミングの準備をするため、ジョンさんは先に栂の木に向かった。 滑車を使うことで、自力だけでは登れない人でも高い木に登れる方法がある。ツリークライミングには、いろんな道具を使うことで、 どんな人でも木に登れるノウハウがあり、そこがまた面白い。
彦坂さんが栂の木の見える丘の上に到着した。背負子に乗って後ろを向いているのでまだ前の風景は見えない。
「1,2の3」で背負子をかついでいるボランティアの後藤さんが後ろを向いた。彦坂さんの目に、栂の大木と、 その向こうに広がる街並みが映った。「うわー」と声が出た。ここまで来れたんだという気持ちと、 思いを募らせていた木に出会えた喜びで、涙があふれた。
木に「こんにちはー」と話しかけた。木は「よく来たね。ここまで登ってこれるかい」と話した。
いよいよ木に登り始めた。動かない体を精一杯使って、ロープを握り、引き寄せた。足を使うと少し楽に登れることを発見し、 麻痺した足に力を入れた。「無我夢中だった。絶対登ってやるという気持ちだけだった」と彦坂さん。
ジョンさんが付いてサポートし、仲間が彦坂さんの動きに合わせて滑車のロープを引き、後方で支えた。
カメラを持ち、木の上で待ちかまえていた私は、彦坂さんが上がってくるのを待った。顔が見えた。 ジョンさんがサポートして引き上げ、彦坂さんは見事、栂の木を制した。
太い枝に座って、眼下に広がる風景を楽しんだ。車椅子の彼女が、お転婆少女のように目を輝かせていた。 彦坂さんは栂の木としばらく話をしていた。
「よく来たね」
「みんなに助けられてのことだけどね」
「でもすごいよ。感心した」
「小さい時からがんばってきたんだもの。負けん気だけは誰にも負けないわ」
「でも、来年大変だね」
「カリフォルニアのセコイアに登る話でしょ」
「そうそう。八十メートルもあるんだって?」
「そうよ。でも、私やるからね」
彦坂さんを含むツリークライミングジャパンのメンバーは、来年の夏、米・カリフォルニア州にある「スタッグ」と呼ばれる ジャイアントセコイアに挑戦する。